教えのやさしい解説

大白法 434号
 
妙法の四力(みょうほうのしりき)
 妙法の四力とは、私たちが即身(そくしん)成仏を得るために必要な力のことで、信力・行力・仏力・法力の四種(ししゅ)の力用(りきゆう)をいいます。信力・行力は信受する修行者がもつ自力を意味し、仏力・法力は対境(たいきょう)の本尊が具(そな)える絶対の妙力で、他力を意味します。
 日蓮大聖人の教えは、他宗派にみられる自力の行(ぎょう)や他力本願(ほんがん)といった、どちらか一方に偏(へん)した信仰とは根本的に異(こと)なります。仏法を信受する我々凡夫の信力と行力が、御本尊の仏力・法力の妙用(みょうゆう)と冥合(みょうごう)して、はじめて成仏の大果報を得ると説いているのです。
 大聖人は『観心(かんじんの)本尊抄』に、
 「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足(ぐそく)す。我等此(こ)の五字を受持すれば自然(じねん)に彼の因果の功徳を譲(ゆず)り与(あた)へたまふ」(平成新編御書 六五三頁)
と、妙法受持の功徳を説かれていますが、この御文(ごもん)について総本山第二十六世山日寛(にちかん)上人は『同文段(もんだん)』に、
 「この文(もん)の中に四種(ししゅ)の力用(りきゆう)を明かすなり。謂(いわ)く、『我等受持』とは即ちこれ信力・行力なり。『此の五字』とは即ちこれ法力なり。『自然(じねん)に譲り与う』は豈(あに)仏力に非(あら)ずや」(日寛上人文段集 四八六_n)
と、四種の力用を御指南されています。つまり、この本尊のほかに仏になる道はなしと、ひたすら御本尊を信じ奉ることが信力であり、余事(よじ)をまじえずただ題目を唱えることが行力です。そして御本尊の功徳が広大(こうだい)深遠(じんのん)であるのが法力であり、御本仏が衆生を救うために御本尊を顕(あら)わされ、それによって救済する力用を仏力といわれているのです。
 近年、創価学会は、ニセ本尊を販売(はんばい)するにあたり、凡夫の信力・行力が、本尊に仏力・法力を発現(はつげん)する、という本末(ほんまつ)顛倒(てんとう)の邪説を唱えましたが、これは大増上慢(だいぞうじょうまん)の言(げん)というべきです。
 妙法の四力は、日寛上人が蓮華(れんげ)の譬(たと)えを用(もち)いて『本尊抄文段(もんだん)』に、
 「花(け)は信力の如(ごと)し。蓮(れん)は行力の如し。水(すい)は法力の如し。日(にち)は仏力の如し。当(まさ)に知るべし、蓮華は水に依(よ)って生(しょう)じ、我等が信力・行力は必ず法力に依って生ずるなり。(中略)水に依って蓮華を生ずと雖(いえど)も、若(も)し日光を得(え)ざれば則ち翳死(えいし)疑わざるが如く、我等法力に依って信力・行力を生ずと雖も、若し仏力を得ざれば信行退転(たいてん)さらに疑うべからず」(日寛上人文段集四八七頁)
とあるように、衆生の信力・行力が御本尊の法力を元(もと)にして生じ、しかも仏力を得て正しい信心を成就(じょうじゅ)するという妙理をいうのです。
 もとより、血脈(けちみゃく)正統(せいとう)の上に伝持される御本尊には、仏力・法力が具(そな)わっているのですから、御本尊を信じ、題目を唱える受持の一行(いちぎょう)に、即身成仏を得るところの観心修行があるのです。
 私たちは、妙法の四力を正しく理解し、成仏の直道(じきどう)を弛(たゆ)まず歩(あゆ)んでいきましょう。